オルタナティブスクールの「HILLOCK:ヒロック初等部」
を開校される蓑手章吾さんへのインタビューその3です。
なぜ学校を作ろうと思ったのか。
なぜオルタナティブスクールなのか
の「なぜ」の部分から、「教育を変えるためのヒント」を探ります。
(その2からのつづき)
上田(以下ーー)学習指導要領には実はいいこともたくさん書いてありますし、指導要領内でも、「学校ごと、あるいは、一人ひとりの先生が、フレキシブルに、自由に行える余地はある」という文科省の意見も目にします。「やりにくさ」の要因はほかにもありますか?
蓑手さん(以下略)公立学校でも自由にやれる余地はあるのですが、なにか新しいことをする場合は、学校内だけでなく、保護者「全員」の理解も得ないと進めません。この「全員」の理解を得るのに2年3年とかかってしまうわけです。
公立学校とオルタナティブスクールの大きな差は、その教育内容や方法よりも、保護者の共感や共通理解があるかどうか、だと思います。
学習指導要領も相当柔軟なのに、その柔軟な学びが公立学校で進みにくい背景は、ここにあると思います。
ーー なぜ学校は変わらないのか?の「なぜ?」の部分に、保護者の存在は大きいということでしょうか?
保護者だけでなく国民全体の意識や思考が関係していると思います。
「生きる力が必要です」と言われたら、「じゃあなにを覚えればいいですか?」という発想になってしまう。
獲得すべき「知識」「手続き」があるように思って、それを教えてもらいたくなってしまうんですね。これは、そういう教育を国民が受けてきてしまったからでしょう。
また、社会で働くことを考えた時に、画一的な基準での上澄みが採用されやすかった社会状況も関係していると思います。
今は、社会の方で、求める能力や個性の基準自体が多様化してきていて、それぞれの「得意」を持ち寄って全体のパフォーマンスをあげようとする流れが生まれていると思うんですね。
この流れは、受験にも影響を与えていきますから、そうすると、受験のための知識獲得が重要という学習観も変わってくるのではないかなと考えています。
オールマイティに均一的に伸ばすのではなく、それぞれの「強み」を伸ばすことが自然と求められる社会に、徐々になっていっていると思います。
強みや好きなことは、本来ノンストレスで伸びるものですが、それには、好きをつきつめられる「余白」や「ゆとり」と、「学びができる環境」が必要です。伴走してくれる大人とか、無料でアクセスできる教材とか。
「余白」と「学びの環境」この2つが揃うと、学びの姿は変化していくでしょう。
自分たちが通ってきた「学び」を振り返っても、ペーパーテストに書き込んだ内容が今に活かされている実感はないのに、テスト上に反映できるかどうかで「意味があるかないか」を判断したり、または、一つの基準での序列で「成功したかどうか」を決めたりする固定観念を、大人側が変えていく必要があるのだと思います。
例えば、アートの人材がほしい会社は、アートの力がある人を、スポーツの人材がほしい会社は、スポーツの力がある人を、当然採用したいわけなのですが、このアートの力とスポーツの力は、比べることがどだい無理な、全く別個の基準のものです。スポーツでどんなに優れた功績があろうとも、アートの会社にとってはその功績は意味のないものなわけです。
このように、基準自体が、てんでばらばら、それぞれであれば、「優劣」という比べ方はなくなります。
「学力」競争から「探究」競争にシフトするような様相も見え隠れしますが、そうならないためには、「比べよう」という発想も出てこないくらいに、やっていることが多様になることが求められると思います。
テストで一本化されると、下より上がいいよねとなりますが、枝自体が無数にあれば、それぞれが自分の個性・特性にあった道筋を見つけようとするのではないでしょうか。
ーー 試験となると、「公平性」が問題となりますが、基準が一つであることが公平・公正を作るわけではない、基準はそれぞれバラバラでいいという価値観を、社会全体で共有できることが、教育を変えることに必要ということになるんでしょうね。
最後にオルタナティブスクールとしての一条校との関わり方をいま一度お聞きしたいと思います。
一条校とはどのような関係を作っていくおつもりですか?
ヒロックでやろうとしている教育は、もちろん自分たちなりに「いい」と思ってやるものですが、一番大事にされるべきことは、その「こだわり」あるいは「主義」を主張することではなく、「その子にとってよい学びの環境はなにか」ということだと思います。
そのために、一条校にヒロックでの学びの様子を説明し、ヒロックへ通うことへの協力をお願いすることは、子どもに安心と、進路を含めた多くの選択肢を用意するために必要なことだろうと考えています。
ーー 最初にもお話しくださったように、生き生きと目を輝かせて学びを楽しみ、学びを自分のものにするその姿こそが、どんな説明にも勝る、説得力のある材料になるといいなと思います。
その楽しそうな姿から、大人が「ああ、こういうのいいな」と自然に思い、自分の価値観をやわらかくアップデートする、そういう効果が、ヒロックの学校作りにこめられていると思いました。
たくさんのお話、ありがとうございました。
ヒロックには「こうしていきたい」というある程度の枠はあるものの、一番外せないのは「子どもの姿がすべて」ということ、と蓑手さんは終始おっしゃっていました。
「理想の学校作ります」がヒロックのキャッチコピーになっていますが、その理想とは、「正しい教育」「こうあるべき」をというものではなく、「常に子どもの姿を見る」ということにつきるとのこと。
これは、子育てをしている私たちにも共通することだと思いました。
たくさんの「なぜ」から見えてきたもの。
それは、教育や学校が変わるための鍵は、「私たち保護者や市民が教育を"自分ごと"として考えること」なんだということです。
これは、前回の日野さんの講演会「教育は誰のもの?」でもとりあげたテーマでした。
ですが、私たち保護者や市民の自覚が足りない、とことさら自分たちを責める必要はないと思います。
なぜなら、私たち自身も「正解」をなぞるような、いわば受け身の教育を受けてきたわけで、主体的に考える機会が少なかったからです。
だから、ここから、今から、それぞれに考えていければいいなと思います。
例えばギフテッドや、発達障害と言われる特性を持った子どもの認知的また発達上の個性の豊かさに触れることは、これまでの当たり前を疑い、「考える」きっかけをもらっているということになるのだと思います。
子育ても生活も、正解を探すのではない、自分たちで創り出す「探究」だなあと。
子どもたちが探究をワクワクと楽しむように、大人も楽しんで課題に向き合っていきたいなと思います。
(上田)