公立の小学校教員をお辞めになり、
オルタナティブスクールの「HILLOCK:ヒロック初等部」
を開校される蓑手章吾さんへのインタビューその2です。
なぜ学校を作ろうと思ったのか。
なぜオルタナティブスクールなのか
の「なぜ」の部分から、「教育を変えるためのヒント」を探ります。
(その1からのつづき)
上田(以下ーー) 普通教育は学校だけではない、ということになりますか?
蓑手さん(以下略)普通教育=学校と思っているところからの転換が必要だと思います。
今、「学びもルールも学校こそすべて」になっているので、そこが崩れてくることが必要だし、実際、変わってきているとも思います。学校はあくまで選択肢の一つだと思います。
ただ、オルタナティブスクールにしろ、ホームスクールにしろ、「学校教育」から離れきれない要因の一つが「受験制度」ではあると思います。
受験制度も総合型選抜などが増え、変わってはきているので、これも追い風になるのではないかと思っています。
いずれにしても、教育や学びにまつわる固定観念、普通教育=学校、であったり、学びは歯を食いしばってやるものという価値観であったり、こうしたものを崩していければいいなと思います。
ーー 学びは嫌々やるものではなく、「楽しくて仕方ないこと」と、まず大人側が思うことが大事なんでしょうね。そう考えると、いわゆる「教科」の学習も探究のタネになると思いますが、ヒロックの探究学習はどのようなものですか?
大きく3つの軸があります。
ひとつは「教科」の学習に近いものです。例えば算数をやっているときに、「これどういうことなのかな?」「どうなっているのかな?」と考える学びです。
その対極的な位置付けが「マイプロジェクト」です。「なんでもいい」探究。好きなことをとことん調べたり、突き詰めたりできる学びです。シェルパ(ヒロックでの教師)は、学び方をサポートするなどして、一人ひとりのステップアップを補助します。
その真ん中あたりにあるのが、「テーマ学習」です。バカロレアがやっているような、教科横断型で一定のテーマに沿って学びを深めます。
ーーどの軸も、「正解」を覚えるのではなく、「考える」ことが基本になっていますね。
公立の学校にも「総合」と呼ばれている「総合的な学習の時間」があると思います。「総合」は探求にはなりませんか?
「総合」を探求的な学びにするのは、非常に難しいと言わざるを得ません。
実際は”問題解決型学習”スタイルでやる「理科」のようなものというイメージです。
テーマがあって、問いを考え、調べて、レポートにして、発表する、というプロセスをなぞっているだけと言ってもいいかもしれません。
ですから、「探究」の本来の姿である、「真正の学び」には、残念ながらなりえていません。
※問題解決型学習
ここでは、教師が設定した課題に対して、個人または共同で解決策を考え、まとめるという学習スタイルを指します。一方的な知識の教授ではなく、課題から「問題」を見つけ出し解法を考えることで、学ぶ意欲を引き出すことが狙いの学習スタイルですが、ただ流れに沿うだけなど形骸化している面や、学習の目的を掴み取れないままの子どもがいるなどの状況も生まれています。(注ueda)
ーー なぜ「総合的な学習の時間」は真正な学習、本物の学び、にならないのでしょうか?
コントローラーを教師が持っていることにより、子どもに情熱やモチベーションが湧きにくいことが第一の理由かと思います。
限られた時間の中で計画され、枠や型が決まった中でやることになるため、教師側にも自由がありません。
探究において、テーマは一定決められる場合もあるとは思うのですが、そこからの「思わぬ展開」や「飛び出し」が、面白さになると思います。それが「総合」では許されにくく、帰結点は「想定内」のところにとどまります。
また、学びのサイクルを子どもが自分で回していくことこそが、探究的な学びをする目的ですが、「総合」では、教師のガイドをなぞることを繰り返すだけになりがちです。
教師にも、「なぜこういう学び方をするのか」という学習の目的が共有されておらず、詰まるところ「知識」を教えることが目的になってしまっていると思います。
例えば、環境問題がテーマだとして、環境問題にアプローチする中で、「どう考えればいいだろうか」「どう進めればいいだろうか」「なにから始めればいいだろうか」といった学び方そのものを、子どもたちに模索してもらう心づもりが教師になく、環境問題についての「知識」を教えることが目的だと思っている教師が多いように思います。
ーー「知識」の獲得の仕方が、一方的な教授の方法ではないスタイルになったというだけで、「学び方を学ぶ」というような、「探究」の目的は、落とし込まれていないということですね。それはどうしてなのでしょうか?
ペーパーテストでいかにアウトプットするかという教育観・学習観が、学校や先生に染み込みすぎちゃっています。
「総合」にテストはありませんが、例えば「オゾン層」だったり「CO2」だったりの「知識」を覚えていないと価値がないと思っている節があるんですね。
テストで測れるものを教授できたか、あるいは獲得できたかが、学習の基準になっているきらいがあります。
ーー「総合」が「形だけのなんちゃって」になりがちなのは、わが子の子育てを通して感じてはいましたが、「総合」がそうなっている大元に、「ペーパーテストで測れるものかどうか」視点があることに驚きました。
そこ(どれだけ知識を獲得し、いかにテストでアウトプットできるか)にしか価値が見出せない大人が多いと思います。これは子育てをしている親も含めて大人全体として。
「学び方を学ぶ」が響かず、どんな知識や技能を獲得したかだけに興味が強く、「学び方」をそれぞれに工夫することや、その力は伸びるということは、あまり考えていないでしょう。
ただ”楽しいだけ”では、「総合」の時間はムダな時間になってしまうので、なにかしらの知識を獲得できるよう学校がコントロールしなければならないというのが、学校の当たり前になっていると思います。
ーーこれもまた「公立学校の壁」なわけですね。
その3では、公立学校の「やりにくさ」、なぜ学校は変わらないのかについて、さらにお話しいただきます。