学びの個性尊重プロジェクトを始動して、1年が過ぎました。
ここで、改めて、学びの個性尊重プロジェクトがどういう思いを持っているのかを、お伝えしたいと思います。
キーワードは、
ラベルではなくニーズを
です。
"認知的な個性、多様な発達の道すじへのまなざし"
学びの個性尊重プロジェクトでは「ギフテッド」をトピックに取り上げました。
そのため、「ギフテッド」のための活動なのかな?と思われた方や、「ギフテッド」の集まりなのかな?と思われた方もいらっしゃるかもしれません。
ですが、私たちは、すべての人、一人ひとりにさまざまな認知的な、また発達上の特性があると考えています。
そして、その特性が組み合わさって「学びの個性」が作られていると考えています。
ですから、「学びの個性」を作る特性についての理解を深めたいという思いから、さまざまな特性の中の一つである「ギフテッド」についてとりあげました。
私たちの考えをイメージにしてみました。
(1枚におさめたかったので、字が小さくなってすみません)
(参考)西永堅 星槎大学スクーリング資料
左側の図を見てください。
個人が、どこかのカテゴリーに属しているイメージです。
個人に、なにかしらのラベルが貼られたような印象で、そのラベルで個人が語られてしまったりもします。
子どものことも、「わが子はなにものなのか」とラベルを探してしまったり、「どこに属するのか」とカテゴライズしてしまうことがあるように思いますが、それは違うと考えています。
右のイメージ図にあるように、特性は、「個人」の中にあり、「個人」の一部にしか過ぎません。
ある特性だけで、その人全部が語られるわけではないのです。
個々それぞれ、人にはそもそも違いがあるのですから、線引きをしようと思ったら、無数の線引きが必要です。
つまり、「人」を線引きすることは不可能ですし、意味がないことだと思います。
大事なのは、どんなラベルがつくかではなくて、どんな「学びの個性」があって、どんなニーズを持っているのかではないでしょうか。
※資料にも書き入れておりますが、「ギフテッドネス」や「HSC」は、扱いの難しい概念です。心理学的アプローチの概念で、医療的な用語ではありませんが、特性の一要素としてピックアップしています。
"「障害」を個人と社会との関係性でとらえる"
また、私たち学びの個性尊重プロジェクトでは、「障害」を個人の特性と社会(あるいは年齢的な基準)との関係性の中で現れるものと考えています。
障害には一般的に2つの捉え方があります。
障害を個人の問題として捉える「医学モデル」
障害を個人の特性ではなく、主として社会によって作られた問題とみなす 「社会モデル」
2001年5月、世界保健機関(WHO)総会において採択されたICF(国際生活機能分類)では、「障害」を「生活機能に問題が生じた状態」と考えています。
そして、「障害」=「生活機能上の何らかの問題」は、個人の要因と環境要因との相互的な作用で起こるものと考えています。
「医学モデル」と「社会モデル」の「統合モデル」です。
ICF(国際生活機能分類)の考え方に基づくと、「個人」の中にある特性がイコール「障害」なのではありません。
特性と環境が合わない時
なにかしらの「適応」を求められるがそれが不可能な時
などに、「障害」として現れると考えることができます。
つまり、特性があっても「障害」として現れる場合と現れない場合があるということです。
ですから、その特性がASDであれ、「ギフテッドネス」であれ、なんであれ、社会や環境あるいは年齢的な基準とうまく合わない時は、それが「障害」の形となって現れるのだと言えるでしょう。
「発達障害」は、その特性だけを指して「障害」と呼ぶのはそぐわないのだろうと思います。
現に、専門家の間では「神経発達症」という言い方に変わってきていますし、法律などでも「神経発達症」という言葉にいずれ変わるでしょう。
発達は一様ではなく、その道筋も多様です。個人の発達のようすや認知上の個性と、周りの環境を、その時々にすり合わせることで、「障害」を現れにくくすることはできると思います。
個人からも、環境からも、少しずつ歩み寄っていくことが必要だと考えます。
※生活機能上の問題は誰にでも起りうるものなので、ICF は特定の人々のためのものではなく、「全ての人に関する分類」 です。
※環境要因は、単に物理的な「環境」だけでなく、人間関係などソフト面も含まれます。
詳しくは、参考資料を見ていただければ幸いです。
【ICF(国際生活機能分類)についての参考資料】
ICF(国際生活機能分類) -「生きることの全体像」についての「共通言語」-
ICFの中での「障害」のとらえ方
“違っていてあたりまえ”
さてここまで、「個人」の中にさまざまな特性があり、それが「学びの個性」を作っていることと、「障害」をどうとらえるかについてのお話をしました。
それぞれに持っているものが違うのですから、人は、さまざまな分野において能力や、思考の仕方、理解の仕方、興味関心に差があるのが「ごく普通」だと考えます。
興味関心については、それぞれの個性として認められやすいですが、理解のスピードや方法といった知的な能力に個人差があることは、特に日本においては無いものとされがちです。
また、学び方や思考スタイルもそれぞれに違っていて当然だと思うのですが、学校の「標準」のやり方にフィットしていないと、「どこかに問題がある」とされてしまいがちだと思います。
「発達障害」の概念は、個人の発達には違い“も”あるものなんだということを明示し、適切な支援への道をつけたという一定のメリットは有ったと思います。
一方、ちょっと標準から外れているときに、それをぜんぶ「発達障害」の概念に閉じ込めて、安易に解決しようとする風潮にもなってしまったとも思います。
“「診断」やラベルの役割”
「みんな同じ」が基本の日本の学校文化では、特別扱いをするために、「免罪符」が必要な気持ちになってしまうようです。そのため、支援には「診断」や「ラベル」が必要という流れができているように思います。
ここで本末転倒が起こってしまい、「診断」や「ラベル」がないから支援は受けられないという状況も起こるようになりました。
また、「診断」や「ラベル」がゴールのような錯覚に陥り、「発達障害なのだから(できてなくても)しかたないね」であったり、「まず“整えて(治して)”から、教育にアクセスしてね」というような状況も残念ながら生まれています。
でも、「診断」や「ラベル」は、その人に合った、その人のポテンシャルを引き出すために適した方法を探るための材料の一つであるはずです。そういう意味で、「診断」や「ラベル」は全てではないし、ゴールでもないでしょう。
そして、「診断」や「ラベル」が無くても、その子の困り感や教育ニーズに応えていくのが、本当の「特別支援」のあり方だと思います。
“教育の機能”
実は日本の「特別支援教育」は、理念としては、真のインクルーシブ教育実現のため、多様な個々の教育ニーズに応えるための制度です。
本来は、「診断」や「ラベル」がなくても、学校教育において、その子のニーズに対応していける仕組みですから、支援学校や支援級だけでなく、通常学級でも行われていいものであるはずなのです。
つまり、「標準」からはみ出ている様子が見られる子どもがいる場合に、その子に必要な「特別扱い」をすることは、本来”全員に”認められていることなんです。
そして、それこそ、特別でもなんでもない、「教育」の“当然の”機能だと思います。なぜなら、すべての子どもが、「その能力に応じてひとしく教育を受ける権利を有する」と規定されているからです。
この教育のあり方は、文科省や経産省が提示しはじめた「個別最適な学び」という言葉にも表れています。
「個別最適な学び」は、それぞれの子どもに必要な教育内容と方法を“個々”に考えるものとなってほしいと思っていますし、そうなるように、私たち一人ひとりがその動きに呼応し、対話し、実現の一旦を担っていくための行動を起こせばいいと思っています。
“「学びの個性尊重プロジェクト」でやりたいこと”
現実は、能力や学び方にそもそも個人差があるということが、社会の共通概念にはなっていません。ですから、そのことを意識的にアナウンスしていきたいという思いがあります。
そして、「診断」や「ラベル」が無いことでもやもやしていたり、支援の道や居場所がなくて困っていたりするお子さんと保護者の方が、「ラベル」ではなく、「ニーズ」で選択し、参加できる場が作りたいという気持ちもあります。
「個」を基本とし、いろんな可能性や背景を念頭に入れながら、まず、"今"のお子さん(本人)の困り感やニーズに、なにかやってみようというきっかけやヒントを得てもらって、日々が楽しくなるようなお手伝いや活動ができたらいいなと思います。
まだまだ未熟な活動ではありますが、その辺にいるような普通の一市民が、日常の生活とともに進めていく、そんな活動を、地道に続けていこうと思います。