(賛同者1号 * 自己紹介その1の続きです。)
わが家の場合、地理的な壁、アカデミック言語の壁、ほか諸々の壁があったことも考慮しなければいけませんが、それでも、
「アメリカの既存のギフテッドプログラムをもってしても、息子を心身健やかに育てるのは難しかったし、大学生になった今でもまだ難しい」
の一言に尽きるように思います。
例えば、知的好奇心は人一倍強くても、学校の勉強となると、いくら自分の好きな分野であってもまったく興味を持てなかったり、その好きな分野で飛び級をしても何故だかますます引いてしまったり。
好きな分野で自分よりも秀でたピアに遭遇してインスパイアされるときもあれば、逆に落ち込んでその分野から退いてしまうこともあったり。
同じギフテッドの子たちとなら意気投合すると専門家には言われたのに、当の本人は意気投合するどころか緊張してしまって話すこともできず、あるいはみなさんの凄さに圧倒されて自信を失くしてしまったり。
一方で、この6年間、息子はギフテッドプログラムとはまったく関係のない世界で知り合った子達と独自に絆を深めてきました。
その仲間たちは、もともとは同じ関心ごとを持つ子たち(like-interest peers)で、共感力が高い優しい子だったり、関心ごとは似通っていても思想や信念は真逆な子だったり、学校の成績なんて全然気にしてないという子や、場面緘黙、LGBTQで悩んでいる子もいれば、ふつうに学校生活を謳歌している子もいたり。
飛び級して大学生になった息子を賞賛することもなければ嫉妬することもなく、お互いの得手不得手を補い合って、それぞれ年齢も国も違うのに宿題を助け合ったり。
嫌いな部分もあるけど、ここは好きとか凄いとか、無意識にでも認め合っていたり。
アカデミック面でも、ソーシャル・エモーショナル面でも、既存のギフテッドプログラムでは結局挑戦続きだった6年間のオルタナ教育を経て、私が今たどり着いている “場所” は、
ギフテッドであっても、その能力や得手不得手は一人一人違うし、
性格も嗜好も思考もバックグラウンドもそれぞれ違うし、
本人が満たされたいニーズも、その満たし方・満たされ方も、必要とするサポートも、驚くほど千差万別で、
だからこそ、
“いわゆるギフテッドプログラム” という存在に「ギフテッドプログラムだから大丈夫だ」と期待し過ぎてはダメなんだな…
というところです。
また、ギフテッドどうこうまったく関係のないところでの息子の交友関係を嬉しく見守りながら、
「年齢や国籍、ジェンダーを含め、さまざまな括り(label)って何なんだろう」
と以前より意識するようになりました。